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賀正


今年のテーマ <凛々しく老いる>
 

 

 10月末に腱消炎、右手の親指がばね指、一切親指が使えない状態。親指の重要性を初めて知った。字が書けない。台所仕事不可。ボタンもダメ。そこで左手の親指が頼り。今度は左手を使いすぎて左手の親指までおかしくなった。日常生活が停止状態。鬱的気分。今、独り身の自分は自分を必要としている沢山の仕事以外に洗濯・掃除、90歳の母の三食・息子の夕食の賄い等々に追われている楽しい日常がある。しかし、今回の事件で深く考えた。肉体も精神も年齢が増すごとに低下し、今まではできたことができなくなる。昔のような家族関係が崩壊していく中で独居老人が増え、鬱老人の増加は免れない。自分もその一人かも。では、これから何を杖に生きていけばいいのか?老いてやれなくなったことを嘆かず、今でもできること、今だからできることを深く、凛々しくやる。これからの自分は「凛々しく老いること」に徹したい。           平成22年1月元旦

追記

「深く凛々しく老いる」ということは「社会に向かって、自分に向かって厳しく生きる」ということです。老いることによって「できない」ことが増えていくが、「できない自分」から目をそらさず、その状況に甘えることなく、進化していくために「深く凛々しく老いる(生きる)」ことを自分に課したつもりです。


<親サロン議事録〜1月〜>

 

 1月17日(日)今年最初のサロンには、新しい顔も加わり17名が参加。来月行われる「子育てに悩む親たちの集い」を含めイベントの打ち合わせを行いました。
 この日のテーマは高校中退等、若者を取り巻く問題。
 「高校中退」は、それ自体が問題なのではない。中退後、名刺を失くした若者たちに社会的な居場所はなく、故に彼らは家に籠ったり、遊び集団にそれを求めたりする。そして次に起こるのが、「ひきこもり」や「非行」といった問題。そうした事態に陥る前に相談できる場所、中退前からその後まで継続して関われる機関が必要。望月は強く訴えます。
 今、不登校や高校中退を経験した子どもたちに限らず、若者たちの多くに共通して「やりたい事がない」という傾向が在ります。メディアを通じて様々な選択肢が提示される現代。しかし、彼らが実感を伴ってイメージできる物はどれ程あるのでしょうか。漠然とした情報の束の中から次の場所を探せど、「何がしたいか解らない」「やりたい事がない」。…これは私自身の歩んで来た道です。解らない、けれど今居る場所からは容赦なく追い出される時が来る。焦燥感と混乱の中で、私は「進学」を選びました。「取り敢えず名刺が持てる」。私の中に在ったのは、向学心などではなかったのです。
 当時の私を支配していたのは、「1か0か」の価値観でした。何がしたいのか皆目解らないくせに、何か特別な事が出来る筈だ(=1)と。寧ろ、特別でなければ不幸だ、失敗だ(=0)とさえ思っていました。誰もが認めるオンリーワンでなければそれはゼロなのだと。
 しかし、そんな風に思えば思う程、次の場所を探す事は困難になりました。当然ながら、私が特別になる為の場所など、誰も用意してくれてはいないのですから。裏を返すと、私は「自己満足」を知らな過ぎたのかも知れません。価値の基準、判断の基準を自ら持たず、それらを実態の掴めない世間という他者に預けて…。そんな私には、「他の誰かから、輝いて見えるかどうか」が「特別」の意味だったのです。だからこそ、「自分が」やりたいと思える事がなかった。どんなに選択肢があっても、価値の基準を持たない者に選択する事など出来る筈がないのです。
 私には、「自分が決めて、自分がやった」という思い出が殆ど在りません。反抗期のない「いい子」だった様に思います。そんな「いい子」は、成功の実感も無い代わり、失敗は他人のせいにして、何の手応えもなく育ちました。そしてある時、問われるのです。「お前は何をしたいのか」と。「お前は何者なのか、何者になりたいのか」と。答えられる若者が、或いは大人が、一体どれ程在るでしょうか。「子どもと向き合う前に、自分と向き合う事」。そう望月は言います。親という一人の人間が、自分自身と向き合う姿に気付いた時、子どももまた、自分自身を見出せるのかも知れません。(柴田)


 


<ひと息>

むさしのアレコレ

 

 皆様、明けましておめでとうございます。むさしの学園スタッフの蓮實です◆昨年は皆様各位の多岐にわたるお力添えで、むさしの学園は子どもの居場所としての内実を伴って存続することができたと感じています。とくに親御さんも参加された冬祭りでは、その感を深めました◆未来は光と闇のなか。私が一年後どうしているのかも確たることはわかりませんが、昨年の個人的反省を踏まえつつむさしの学園を見守っていこうと考えております。今年もよろしくお願い致します!◆さて、この文章は蓮實ですが、通常「ひと息。」はスタッフの柴田さんが作成されていて、私は読んで感心しているだけです。今回は、特に「なるほどね!」と思ったことがあるので、それを語らせて頂き、結びと致します◆第二号で、企業も親もオンリーワンを求めているという話がありました。それはナンバーワンになれなかった者への救いのようでいて、「人は誰しも固有の優れた何かがある(なければ不幸)」と、子どもたちを追い詰めていく…という。これには目から鱗でした◆…小学校の校庭のうず高いネット裏、林立する木の蔭から天空を見上げると、ネットに絡まる古ぼけた木の実二つ。この実の真下ほど神聖な場所はなく、そこは私の定位置。更に私は、皆が飼った後の小動物たちの墓所たる校舎裏に降り立ち、白骨化したウサギたちのアイドルとして舞い踊る◆…こういうのがオンリーワンかと思っていました◆しかし、企業も親もこういう私を求めているとは考えづらいし、現に企業から引っ張りダコになった記憶もない。これはつまり、オンリーワンといっても、価値体系自体がオンリーワンであることではなく、既に価値とされているもののうちの一種を持っていることを求めている?その程度のオンリーワンか◆なるほど、そうすると、個性的で輝いていなければならないと思って苦しんだり、「フツーでいいんだよ」というのが「ヘンではイケナイ」ということではなく救いの言葉であったりする人が出てくることにも、納得がいきます。恥ずかしながら、私は長年、このあたりの感覚が掴めなかったんです。皆様はそういう感覚わかりますか?◆



 埼玉県南西部地域NPO連絡会イベント 


「つながる つながり <新しい地域力の創出>」 

平成22年2月6日(土)


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 親による、親のための集い 

〜親が語る、親たちが語り合う〜

日時:平成22年2月7日(日) 13時30分〜
会場:フォーシーズン志木ふれあいプラザ


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 「非行・不登校の子どもと向き合って」

平成22年2月20日(土)

 


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 第12回公務員塾 

参加者:公務員限定

講演とワークショップ
国の「事業仕分け」を通じて公務員の仕事を考える
講師 伊関 友伸 氏
日時:平成22年2月27日(土) 14時〜
会場:フォーシーズン志木ふれあいプラザ

 


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望月が通いつめる場所

三島(静岡県)そのC

桜家<うなぎ>


 望月が三島に行く時は大体が一泊二日です。一日目の昼食は前に紹介した沼津の「丸天」。二日目は三島広小路にある「桜家」のうな重。
 前回書いたように「三島は水の町」。水は水といってもそんじょそこいらの水とは違う。<富士山の雪解け水が地下水にしみ込み、百数十年かけて湧水になった水。化粧水と呼ばれる硬水なのだ。この水でうなぎを一週間活き〆し、余分な脂肪や泥を落とす。うなぎの味の良し悪しは「水の良し悪しで決まる」と言われている>(<・・>はパクリ)。
 三島のうなぎが美味しいのも富士山の恩恵。だから三島には鰻やさんが多い。数多い鰻やさんの中で望月が通いつめているのが「桜家」。試しにほかのお店に2軒行ったが、やっぱり最後は「桜家」に辿り着く。
 「桜家」のうな重は「たれ」が薄め。だから、「たれ」で誤魔化した鰻は使用できない。身も厚い。それに柔らかで口の中で溶けてしまう感じ。「たれ」が薄めだから「いい鰻」しか使わないはず、というのが望月の判断であり、気に入った理由。美味しい鰻しか出てこないための必須条件だ。もっと味を濃くしたい場合はテーブルに置いてある「たれ」をかけてもよい。
 ただ土日や祝日は相当待つ。望月は平日に行くが20分〜30分は外で待つことが多い。しかし、中に入ると結構速く料理が出てくる。外は並んでいてもお店の中は客席が満杯でないからだ。これも望月が気に入った理由だ。ゆっくりと美味しいうな重が食べられる。
 「桜家」では普通にある「並・上・特上」といったメニューはない。すべて同じ鰻を使っている。うなぎの枚数によるメニューのみ。もちろん他の料理品目もあるが、うな重しか食べない望月はそれらを食したことはないのでコメントは差し控える。

 「桜家」について不満があるといえば、望月には鰻も大きいが、ご飯が多すぎることだ。食べ残すのはもったいないで結局全部食べてしまう。お腹がパンパン。満足、満足!!

 「三島よいとこ、一度は〜お出で〜どっこいしょ」

桜家<うなぎ>ホームページ