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<むさしの学園春まつり〜お別れ会〜>
 

 

 3日28日(日)、いろは遊学館・調理室にて「春まつり〜お別れ会」を行いました。総勢45名が参加し、餃子作り・お別れ会(色紙贈呈)・消防署体験、そしてお花見と、盛りだくさんの一日を過ごしました。
 餃子作りは、お母さんたちが調理の手順や段取りを考え、買い出しや下ごしらえに走って下さいました。当日も朝早くから集まって下準備。お母さんたちの『女子力』のお陰で、皆、無事にお昼ごはんにありつけたのでした。(見習わなくちゃ…。)
 子どもたちも、思い思いに、オリジナリティ溢れる餃子を完成させました。包み方一つにしても個性的なのに、中にはオリジナリティが暴走して「激辛タブレット入り」のスペシャル餃子を創作するテーブルも。(この後のランチタイムが、「ロシアンルーレット餃子大会」となった事は言うまでもありません。)
 初めは見慣れなかった子どもたちのエプロン姿も、餃子が出来上がる頃にはすっかり様になっているから不思議です。普段可愛らしい女の子が意外と豪快だったり、体育会系の男子が繊細だったり…みんなの新たな一面を見られ、楽しいお料理教室となりました。自分の手で作った餃子の味は、きっと格別だったのではないでしょうか。(因みに、激辛タブレット20粒入り餃子の被害者は塾長。子どもたちは大盛り上がりでした)。
 自分たちで作った餃子と、お母さんたちが用意して下さったピラフとスープで大満足の昼食を終えた後は、子どもたちが率先して後片付け。食べ終わったテーブルから、自然に食器洗いが始まっていました。…これには塾長も、「こんな事初めて!」と感激。フライパンもお皿たちも、どんどん片付いていきました。
 綺麗に片付いた調理室で、閉会式。先ずは、この春、小学校卒業、中学校卒業、高校卒業を迎える子どもたちへの色紙贈呈です。照れながらも、皆の前に出て色紙を受け取り、抱負を語ってくれました。また、先輩たちや後輩たちも前に出て、卒業生へエールを送りました。また、この日で実習最終日となる大学院生さんたちへ、学園の皆からメッセージカードを贈呈。子どもたちからの言葉は、何よりの励みとなったのではないでしょうか。     
 調理室を出た後向かったのは、志木消防署。
 救急車の車内がどんなふうになっているのか、また消防車の仕組みなどを、志木消防署の皆さんが丁寧に説明して下さいました。そして、この日の目玉は何といっても「はしご車体験」。地上35bの高さへ伸びていく梯子…そこに、小さな籠に乗せられて行くわけですから、結構な恐怖体験!ですが、子どもたちは大喜び!そしてそれ以上に(?)お母さんたちも楽しんでいたような!?
 帰り道には宝幢寺に立ち寄り、満開を迎えた枝垂れ桜を楽しみました。
 
それぞれが皆、新たなスタートを切った春。毎年花を咲かせる枝垂れ桜のように、むさしの学園も、変わらずここに在り続け、皆を見守っていけたらと思うのでした。



<親サロン議事録〜3月〜>

 

 2月28日(日)、14名が参加して、2月・3月の親サロンが行われました。
 この日は、『春まつり』の打ち合わせ。当日の手順や準備の分担など、お母さんたちが主役となって議案をまとめてくださいました。
 そして後半はいつもの様に近況報告会に。この日初めて親サロンに参加するお母さんも居られ、様々な視点・想いが語られました。
 話題の中心は「存在感」。人は誰しも自分の「存在感」を求める。そう望月は言います。社会全体が右肩上がりに成長を続けていた頃、より高い学歴・より高い収入・より立派な家…と、多くを求めて努力し達成する事が、各々にとり現実的な目標たり得ていました。しかし、学歴・収入・物質的豊かさが飽和状態にある現代において「今以上」を求めるのは容易いことではありません。遠くの目標・大きな夢…自分にも他人にも解りやすい「成功」をイメージするには満たされすぎた時代かもしれません。
 そして、私たちの世代(昭和60年代〜平成生まれ世代)は、ファッション・彼氏・友人といった、自分の周りの小さな世界に執着し始めます。なぜなら、自分の力で動かせるもの、「動かした」と実感できるものといったら、それくらいしか残されてはいないのですから。若者たちや子どもたちは、その小さな世界の中で自分の存在を証明しているのです。
 ――自分の身の回りの小さな物語に、自分の「存在」を見出さざるを得ない世代。小さな世界の中で「自分の存在」を実感するためには、周囲の人々に自分を認めてもらうことが必要です。私たちは、自分の存在を感じ続けるために、一昔前ならば「そんなこと」と一蹴してしまえたような周囲の人間関係を過剰なまでに気にし、「KY」などと言われぬように調子を合わせ自分の居場所を辛うじて確保しているのです。そうしてようやく感じることができる「わたし」の「存在」。
 周囲の人間に認めてもらうことで「存在感」を得ることは、一見、大きな目標に向かっていくよりも簡単に見えます。しかし、それは容易いようでいて、始終気の抜けない綱渡りの日々です。遠くの目標に照らして、自分自身を見出すことが可能なら、「そんなこと」と笑っていられたこと。そんな小さなもの・ことが、今の私たちにとっては「存在感」を補完する術、自分自身を照らす光源となっています。
ほんの些細なきっかけで始まる「いじめ」、「不登校」、「ひきこもり」。大人たちはそれを見て、「たった一度の躓きで、ほんの小さなことで、なぜ?」と言います。しかしそれらは、大きなビジョンの無い小さな世界に生きる若者たちや子どもたちにとっては必然と言える反応なのかもしれません。彼らの「存在感」の拠り所は、あまりに小さな日常なのだという事実と、その閉塞感、疲労感を、大人たちの心のどこかに留めておく必要があるのでしょう。(柴田)